思いやりと自己愛?

世の中には、心の底からやさしい人がいます。
相手を本当に心配して気づかい、何とか相手のためになろうとします。
そこには、計算高さや駆け引きのようなものは少しもありません。

ただ、心配するあまり、相手が見えなくなります。
一生懸命になるあまり、相手の立場、都合やペースを考えることができなくなります。
そのため、知らず知らず、自分の都合とペースで「相手のため」に何とかしようとします。

その結果、「相手のため」にならなくなってしまいます。
相手からすると、お仕着せがましかったり、自分勝手に思えます。
ありがた迷惑に感じます。

「自己愛」という言葉があります。
自分が好きという意味です。
他人とのコミュニケーションの中で育まれた自己愛は、自然な自己肯定感です。
これに対し、ひたすら自己を美化し、それを認めるよう他人に求める自己愛もあります。
自分はすべて正しいと思いこみ、少しでも批判されると落ち込んだり逆うらみします。
くり返し、劣等感を植えつけられる中で、自分を守るために、そうした行きすぎが生じます。

先ほど述べた人は、自分勝手に見えます。
そのため、自己中心的な「自己愛」の人のように映ります。
しかし、そこにあるのは、相手のためになろうという一生懸命さです。
不器用なほどの、根っからのやさしさです。
「他人への根っからの優しさ」は、「自分への行きすぎた愛」とは、本当は真逆です。

それにもかかわらず、相手からは、その人は自分本位の自己愛に見えてしまいます。
それは、そう見えてしまう人の不器用さに原因があります。
しかしそれ以上に、相手からすると、ありがた迷惑という点で、どちらも同じだからです。
そこでは、ありがた迷惑を拒絶して、そこからとにかく身を守ろうとする感情が生まれます。
この感情が、上の2つを区別できなくしているわけです。

多くの場合、相手を「自己愛だ!」と批判する人にこそ、「自己愛」があるのかもしれません。
他人を批判するときは、自分にこそその批判が当てはまるのでは・・・。
そう思いかえす訓練が必要だなと感じることがしばしばです。

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