兵庫県知事選挙と民主主義? (後編)

私は、今回の知事選挙の根底にも、多くの民衆(「大衆」ではなく)が日々の生活の中でかかえる不安や苦労、それらに基づく政治への不満・不信などが大きなエネルギーになって横たわっていたと感じています。それは、これまでたどってきた不安・苦労への不満・不信、そうした過去に戻りたくないというアレルギー反応も含むかもしれません。

そうした民衆の、民主主義のエネルギーの、龍のようなうねりが、現実の政治への反動として働いて、前知事に追い風になって今回の知事選挙の一見「不思議な結果」をもたらした。見ようによっては孤独にじっと耐えているようにも映る前知事の姿が、日々の生活の中で不満・不信をかかえる人たちにとって、「自分たちの姿を象徴するヒーロー」のように映ったのかもしれません。本当はどうなのかを問題にするより前に。自分たちと重ね合わさるように。「かわいそう」・「がんばって」と思わず感情移入してしまう存在として。

もちろん、軽率な決めつけは禁物です。
ただ、そのようにとらえることも可能だとすれば、今回の知事選挙も、民主主義の崩壊や否定や誤った方向ではなく、民主主義そのもののあらわれということになります。まさに民衆のエネルギーのあらわれです。

しかし、今回の知事選挙が民主主義そのもののあわられだとしても、前知事が現職の知事だったときの県政の中で、尊い命が失われたという事実は、決して忘れてはなりません。前知事には、改めて県政の長として、あるいは一個の人間として、この事実に正面から向き合い、法と良心にふさわしい責任を完全に全うすることが強く求められます。

今回の再選は、そのために天が与えた機会です。

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