ニーチェ (1844年-1900年) は、ドイツの哲学者です。
ニーチェの書いた本は、言いまわしも中身も難しいと言われます。
それにもかかわらず、ニーチェの哲学は不思議な魅力をもっています。
今も世界中に多くのファンがいます。
ニーチェの哲学を解説した本も多くでています。入門書、専門書、マンガ・・・
「人生に疲れた人へ」とか、「生きるための哲学」といったキャッチフレーズがつきます。
ニーチェの哲学には、「超人」だの「永遠回帰」だのといったトンガッタ言葉がでてきます。
読む人をあおるような言いまわしもたくさんでてきます。
それがおもしろいと感じる人もいます。
1つひとつのトンガッタ言葉の意味を深く追究することに興味を持つ人もいます。
ニーチェそのものの人生に関心を持つ人もいます。
「ニーチェの読み方」は、ひとそれぞれです。
それぞれのひとが、ニーチェ哲学に自分の「理想」を見つけようとします。
私も、ニーチェ哲学の最大の魅力は、「生きる力」がゴンゴンと流れていることだと思います。
それがニーチェ哲学の幹になっています。
そこに、上に書いたような枝葉がついているイメージです。
幹というと、じっとそびえ立っている感じがします。
より正確には、「生きる力」の大きな河がゴンゴンと流れているイメージです。
そこから、小さな川がいくつも流れでています。
その全体が、ニーチェ哲学を形づくっています。
つまり、ニーチェ哲学には、生きることの「うねり」・「うごき」が感じられます。
それが多くの人をひきつける力になっています。
生き方はひとそれぞれです。
ですから、ニーチェ哲学の「うねり」・「うごき」のとらえ方もひとそれぞれなはずです。
その意味でも、ニーチェの「正しい」読み方といったことを考えるのは、ナンセンスです。
生き方や、その悩みの数だけ、「ニーチェの読み方」はあります。
ただ、ニーチェ哲学の「うねり」・「うごき」は、まさに河の流れのようです。
曲線をえがきながらも、とにかく前に前に流れていきます。
前に前に流れていく以上、流れの始まりや終わりがあるはずですが、よくわかりません。
とにかく前に前にです。
それがニーチェ哲学を力強いものにしています。
その一方で、ニーチェ哲学をどこか不安定なものにしています。
始まりも終わりもわからない大河というのは、何となく不安定なイメージです。
ニーチェが言う「永遠回帰」とは、時間の流れは線ではなく大きな円だという意味です。
時間は、とても大きな円のようにグルグル回っているという意味です。
それは、人の生まれ変わり(輪廻転生)の話のようですが、そうではありません。
もっと大きな意味での時間そのものが、グルグルまわっているイメージです。
ニーチェ自身も、自分の哲学の不安定さを感じていたのかもしれません。
そのため、大河の流れの両端をつないで、グルグル流れるプールのようにしたのでしょうか。
ニーチェは、この「永遠回帰」が真実であることを、真剣に証明しようとしました。
そのときのニーチェは、実に活き活きしています。自分の不安定さから解放されたように。
私は、ニーチェ哲学は「生きる力」を正面からとらえた点で実に偉大だと思います。
同時に、「生きる力」を大河の流れのようにとらえたことには、不十分さがあったと思います。
線の両端をつないで円にする「永遠回帰」のアイデアは、十分な解決策とは言えません。
この点は、どうイメージするとよいのでしょうか?
「生きる力」は、大河の流れのようなものなのでしょうか?