前回、親鸞と浄土真宗についてお話ししました。
今回のテーマは、そこで感じたことです。
親鸞が開いたとされる浄土真宗。その師である法然の浄土宗。それらを含む浄土教は、念仏を唱えると悪人でも極楽浄土に行けるとします。その根拠はいろいろと説明されますが、根本は、阿弥陀仏という仏の存在と、その仏がまだ修行中に誓ったこと、中でも「第18願」つまり18番目の誓いの存在です。この誓いは、意訳すると次のとおりです。
第18願
私(まだ修行中の阿弥陀仏)が究極のさとりを得るところまで来ても、世界中のすべての人が心から私を信じて究極の心の平安を得たい(極楽浄土に生まれたい)と願って、「あなた(修行中の阿弥陀仏)の言うことを心から信じます(南無阿弥陀仏)」とたとえば10回声に出したとする。それでも究極の心の平安が得られない人が1人でもいたら、私は究極のさとりを得たなどとは決して思わない。ただし、重大犯罪を犯した人や仏教の真実の教えをけなす人は除く。
つまり、自分のことを心から信じてそれを声に出した人を私は必ず全員救いますという決意表明です。阿弥陀仏は、このような誓いを立てて、その後実際に究極のさとりを得た。「仏」という最高の地位にたどりついたということはそういうことだ。だから、この誓いは達成されたと言える。そのおかげで、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、どんな人でも究極の心の安らぎを得ることができる。このように説明されます。ちなみに、上記の「ただし」にあげられる2種類の人だけは除かれているようですが、この点は、そうした人も含めて文字通りすべての人が救われると考えられています。
ところで、阿弥陀仏とその第18願は、何を根拠に存在するとされるのでしょうか? それは、お経にそう書いてあるからです。
ところが、実はこのお経は、仏陀(お釈迦様)が亡くなってから何百年も後に作られたものであることがわかっています。そもそもそこに書かれていることは、仏陀自身が言ったことではない(のちの人が仏陀の名前を借りて語った)可能性もあります。しかし、たとえ仏陀自身が言ったことでないとしても、だからただちにその内容が間違いだということにはなりません。大事なのは内容が正しいかどうかであり、仏陀が言ったかどうかではないからです。この点は、同じようなことが書かれているお経がいくつもあるし、修行をつんだいろいろな人が「正しい」と言っているのだから正しいに違いないとされます。
しかし、似たような内容のお経がいくつあっても、その内容が正しいという確実な証拠にはなりません。あるお経が別のお経を参考にして作られていたり、同じ出どころのものを別々に訳しただけで、だからすべて間違っている可能性もあります。また、修行をつんだ人が正しいと言ったとしても、その人たちが正しいと信じているだけなら(それ以上の証拠が示されなければ)、そのような人が何人いても、その内容が正しいという確実な証拠にはなりません。
結局、上記の説明はどこまで行っても、「正しいと信じているから正しいんだ」ということを繰り返しているにすぎないようにも思えてきます。自分の考えが正しいと言っている人に理由を聞いているのに、「正しいから正しいんだ」とひたすら繰り返されているような感じです。たとえ1万人の人が「正しいと信じている」と言っても、間違いは間違いです。
ですから、阿弥陀仏が存在して、修行中に第18願を誓って、その後に実際にさとりを開いて「仏」になったということは、証拠という点で言えば、正しいとも正しくないとも言えることになります。そのため、「南無阿弥陀仏」と唱えたら極楽浄土に行けるかどうかも、かならず行けるとも行けないとも言えることになります。つまり、「正しいかどうかわかりません」です。
では、法然も親鸞も、阿弥陀仏だとか極楽浄土だとか、どちらとも言えないこと、正しいかどうかわからないことをやみくもに信じていただけなのでしょうか?
この点、親鸞が書いた書物の中で第一にあげられるものに「教行信証」と呼ばれるものがあります。親鸞が、自身の思想を深めた後の52歳ごろに書きあげて、そのあとも少なくとも75歳ごろまで手を加え続けたライフワークのような書物です。正式な名前は「顕浄土真実教行証文類」です。つまり、浄土教が正しいことを示す文書(親鸞が証拠になると考えた文書)をたくさん集めたような書物だということになります。実際に、そこにはお経や修行をつんだ僧侶が書いた書物の文章がたくさん引用されています。それに親鸞が要所々々でコメントをつけています。この書物そのものからも、親鸞の次のような人柄がにじみ出ています。はっきり書いてあるのではなく、読めば人柄が感じられます。
親鸞の人柄
・真面目
・学究肌(どこまでも学問して答えを見つけようとするタイプ)
・優秀
・感激屋
・ややストレートな性格
この、少なくとも「真面目」・「学究肌」・「優秀」は、師の法然も共通しています。あらゆる宗派のお経や書物を読んだり話を聞いたりして学んで、仏教に対する豊富な知識ととても高い理解を身につけていたと思われます。つまり法然も親鸞も、ただ信じたのではなく、仏教を知識・理解ともにどこまでも掘り下げて、その行き着いた先に「浄土教を信じる」という強い確信が生まれたわけです。
ちなみに、「教行信証」には、親鸞がコメントを述べながら自分でつっ込みを入れて、「いま、まことに知ることができた」と叫ぶかのような言葉が何か所も出てきます。親鸞は、この書物を弟子たちなどに読ませるために書いたのかもしれません。しかし、決してそれだけではない。自分自身がより深い、どこまでも深い納得を得ようとして書いたのであろうことがうかがえます。言い換えれば、親鸞自身、まだ納得し足りなかったわけです。たくさんの文書を引用した背景にも、その思いがあったに違いありません。それは裏を返せば、阿弥陀仏の存在などを信じることの難しさを、親鸞自身も実感していたあらわれと言えます。
親鸞は、念仏を唱えることはいろいろな修行よりも簡単だと言います。さとりを得る手段としてすべての人が使えて、しかもすぐに効果が出ると言います。しかし、その一方で、「信じることは実に難しい。難しいことの中でも特に難しい。これ以上に難しいことはない」と言っています。また、阿弥陀仏に救いを求める人は、「自ら迷いの心(煩悩)を断ち切らないまま」さとりを得ることができるとも言っています。これは裏を返すと、さとりを開いてもまだ煩悩は断ち切れないままだということになります。これらは、信じることの難しさと迷いをなくすことの難しさを、実は親鸞自身が痛切に実感していたことを物語っています。特に後の方の言葉は印象深いです。さとったときにも迷いそのものは残っているわけです。さとりと迷いが同時に存在しているわけです。ここではこれ以上掘り下げませんが、この言葉には、親鸞が「さとり」をどうとらえているかがうかがえます。迷いをそのままにして、それをおおいつくして丸のみしてしまうようなさとりなのでしょうか?
親鸞は(そして法然も多分)、ひたすら信じるということがどんなに難しいことかよく知っていて、だからこそ徹底的に学んだのだ思います。それにより、自分自身について、自分の身近な人たちについて、あるいは人々を救うことについてかかえる、どうしてもぬぐい去ることができない深い悩み・弱気や迷いを克服して、本当の心の平安と豊かさを得ようとしたのだと思います。どこまでもどこまでも学びつくすことで、さとりを開こうとしたのだと思います。そして、その先にたどりついたのが、阿弥陀仏とその教えをひたすら信じることだったわけです。
これは、学ぶだけ学んだ結果、学ぶことの限界を知ったり、学ぶことが価値のないことだとわかったということではありません。学ぶことに疲れてそれを放棄したということでもありません。実は信じることの方が学ぶことよりも楽だと感じて方向転換したということでもありません。そこには、学びつくすことの延長線上にそのまま、信じることがあります。これは、深い迷いをかかえながら、それをのり越えるために学びつくした人だけが体験できることだと思います。その場合もちろん、正式に僧侶になっているかどうかや、男性か女性かや、悪人か善人かは関係ありません。
機会があればご紹介したいと思いますが、科学は仮設を立てて実験などでそれを証明することで事実を明らかにしようとします。それは、証明できないものを信じることとは一見無縁に思われます。科学者の中には、目で見たことしか認めないと公言する人もいるようです。しかし、科学の世界でも、優秀な先人の何人もが、科学から哲学へと、そして(若干の語弊を恐れずに言えば)直感的に、信じることへと歩みを進めています。たとえば、科学者の代表のようにみられているアインシュタインもその1人です。物理学の世界で数々の偉業を成し遂げたマッハやボームは、もっとはっきりと哲学の世界に進んでいます。それはもちろん科学に限界を感じたからではなく自らの科学がたどりついた姿です。
ここからもうかがえるとおり、学ぶことと信じることは、相反することでも、どちらかを選択するものでもなく、そもそも別々のものですらありません。学ぶことと信じることは、いわば背中合わせの関係にあります。コインの表と裏のようにぴったりくっついて分解できない関係にあります。真に学ぶことは同時に信じる気持ちをひそかにやしなっていきます。そして、真に学びつくしていくとどこかで、それまでの間に大きくふくらんだ信じる気持ちが、それまで学んできた膨大な知識や理解を土台にしながら、裏側から表側に姿をあらわします。そのとき、学ぶことと信じることの立ち位置がついに逆転します。それは、周りからすると(場合によっては本人すらも)、突然のひらめきや心境の変化のように感じられるかもしれませんが、決してそうではありません。むしろ、本当に信じることは、本当に学んだ先にしかないのかもしれません。学問として学ぶのであれ、人生そのものを通じて学ぶのであれ。そして、その両方で学ぶのであれ。
このことは、法然や親鸞が生きた宗教の世界に限らず、何か物ごとの本質を追い求めようとするときに、とても参考になります。