悲劇の誕生

ニーチェの初期の著作に「悲劇の誕生」があります。

ニーチェというと、アフォリズムと呼ばれる断片的な文章のかたまりで書かれた本が有名です。
この点、「悲劇の誕生」は、しっかりとした論文調で書かれています。

また、ニーチェというと「ツァラトゥストラ」のような後になっての著作の方がもてはやされがちです。
しかし、この「悲劇の誕生」は、思想が成熟していない分、そして、論文調で書かれている分、ニーチェの考え方の土台がわかりやすく読みとれます。ニーチェを知るなら、まずこの「悲劇の誕生」を読むことをおすすめします。

「悲劇の誕生」の中でニーチェは、古代ギリシァの悲劇をテーマにして、それについて深堀りしていきます。
その際、古代ギリシァの神である「ディオニュソス」と「アポロン」の名前が象徴として使われます。
半人半獣の自然の精霊で欲情の塊でもある「サテュロス」なども登場します。

そのような深堀りの中でニーチェが言わんとしていることは、いろいろな角度で解釈できます。
それは、この著作の言い回しがわかりにくいからではなく(それもあるかもしれませんが)、ニーチェがいろんなことをぜいたくにこの本に詰め込んでいるためです。

その中で、ここで私がご紹介するのは、この著作の中で示される、「生」についてのニーチェの考え方です。
それは大変興味深いものです。今の私たちの目で見ても、まったく色あせていません。それどころか、現代に生きる私たちにとって、一層価値ある考え方だとさえ言えます。

それは、むつしい表現を省いて要約すると、「生きることは、苦しく、しかも、悦びに満ちている」と言うものです。それをあえて整理すると、次のとおりです。

 生きることは、①表面的に美、②本質において苦、③より根本において悦

このように①→②→③の順に深堀りされて行きます。
①は、いわば理性(りくつ)でとらえた、合理的な「生」です。そうあるべきという意味での「生」です。
②は、もっと現実を直視した、生々しい「生」です。きれいごとでは語れないという意味での「生」です。

しかし、ニーチェは、②の段階もまだまだ本質をとらえきれていず、ある意味目先の現実にとらわれていると考えます。目の前のことに一喜一憂している自分。その結果、なぜ自分は生きているんだろうかなどと考えたりしている自分(まだりくつにとらわれています)。そうした「自分」をなくす。むつかしいことを考えない。生きていることをひたすら直感する。そうしたら③の根本にたどりつきます。ニーチェはそう考えます。

これは、むしろ、生きものなのだから当たり前なのかもしれません。「なぜ生きているの?」→「生きものだから」。ただそれだけのことなのかもしれません。その境地に至ったとき、りくつ抜きに、生きる悦びがふつふつとわいてくるということなのだと思います。

「本当にわいてくるの?」と思われるかもしれません。しかし一度ためしてみる価値はあります。

ちなみに、ニーチェがはじめのころ強い影響を受けていたショーペンハウアーという哲学者がいます。このショーペンハウアーは、②のところで止まっている印象を受けます(もっと深く理解すると決してそうではないのですが)。ニーチェは、それをさらに進めて③にたどり着いたわけです。

ここでのすごさは、誰も考えつかないような何か新しいことを思いついたことにあるのではありません。
とても当たり前すぎて、ともすれば忘れがちなこと。特にものごとをむつかしく考えるくせがついていたり、いわゆる「現代人」と呼ばれる人たちにとって忘れがちなこと。そのことに気づかせてくれる、「コロンブスの卵」のようなところ。ニーチェの偉大さをあげるとすれば、そこにあると思います。科学の世界で言うと、アインシュタインに通じるようなすごさです。

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