悲劇の誕生_補(長めに、少し哲学チックに)

前回、ニーチェは、生きることを次の順に、①→②→③と深掘りしていったことを紹介しました。

 ① 表面的に美 ・・・ 理性(りくつ)でとらえた合理的な「生」。そうあるべきという意味での「生」
 ② 本質において苦 ・・・ もっと現実を直視した生々しい「生」。きれいごとでは語れないという意味での「生」
 ③ より根本において悦 ・・・ 現実のおおもとをとらえた「生」。生きていることをひたすら直感した意味での「生」

そして、③について、「なぜ生きているの?」→「生きものだから」。ただそれだけのこと。その境地に至ったとき、りくつ抜きに生きる悦びがふつふつとわいてくる。そうお伝えしました。

ただ、生きものなのだから当たり前というだけで、どこまで生きる悦びがわいてくるのでしょうか? はじめからこんな批判などせずにとにかく試してみる価値はありますが、これはこれでむつかしい気がします。ニーチェも、上記の深掘りをする際、1つひとつの生きものの「生」のもっとおおもとに、1つに統合された「根本的な生」をイメージしています。その根本的な生のうえに個々の生があるととらえているようです。ですから、「なぜ生きているの?」→「生きものだから」と言うときの土台にも、この根本的な生があります。それが、③の悦びの境地につながっています。つまり、③の悦びを感じられるには、まず「根本的な生」について納得する必要があるわけです。

もっとも、ニーチェは、その根本的な生がどんなものなのかは、少なくとも「悲劇の誕生」の中では具体的に語っていません。古代ギリシャの神になぞらえている程度です。その後の著作の中でも大きくは変わりません。このあたり、「根本的な生」は、目に見えない、五官でとらえることができない、だから言葉で直接表現することもできない、そんなものだとニーチェは思っているのかもしれません。ヒントになりそうなことはたくさん伝えるから、あとは自分で直接感じ取ってくれということなのかもしれません。中国や日本の禅の教えに近いものがあります。それよりはヒントを伝える言葉の数ははるかに多いですが。どちらにしても、一番肝心なところが宿題として残されている感じです。

そこで「根本的な生」について考えてみると、いろいろなとらえ方があります。
その1つは、プラトン的なとらえ方です。プラトンは、古代ギリシャの有名な哲学者です。
そこでは、①のとらえ方が、そのまま限りなく強化されます。りくつでとらえた生をどこまでも理想化したものが「根本的な生」です。「そうあるべき、そうあるべき・・・」と、どんどん突きつめていくわけです。そこには、確かに「突きつめる」姿勢はうかがえます。それは根本にたどりつこうとする努力に似ています。しかし、実は全く異なるものです。これではどこまで行っても深掘りにはなりません。①で止まったまま、ただ理想にこだわりつづけているだけだからです。

もう1つは、前回も紹介したショーペンアウアー的なとらえ方です。
そこでは現実に目を向けます。そして、現実の生は理想でえがかれる美しいだけのものとは違って、きれいごとでは語れないとします。その本質は苦です。こんどは、上記のプラトン的なとらえ方と違って、理想の世界だけにこだわらずに、そこから勇気をもって抜けだします。そして現実を見つめようとする姿勢がうかがえます。しかし、その姿勢は、結局②で止まったままです。生は苦であるという現実に突き当たって、そこであきらめてしまいます(ショーペンハウアー自身は必ずしもあきらめているわけではないのですが、ここではわかりやすいように類型化してお話しします)。そこから先には進みません。あとは、その苦をかかえたままどう生きていくのが良いかという方向に深掘りが進みます。生を深掘りするのではなく、苦への対処法を深掘りするわけです。

最後の1つは、根本的な生、つまり「生きもの」あるいは「生きる」ということの真の意味を、途中で止まったりわき道にそれたりせずに、正面から深掘りするとらえ方です。ニーチェは、「悲劇の誕生」以後も、この路線を進みます。ただ、そこでのニーチェの根本的な生のイメージは、基本的に前に前に進んでいく(絶えず進化していく)、その意味で直線的なもののようです(ニーチェ自身は途中で「永遠回帰」といったりくつでこれを軌道修正しようとしますが)。人間はどんどん進化していく、科学はどんどん進歩していく、世界はどんどん発展していくといった発想に似ています。そこでは、「根本的な生」は、1つの大きな河の流れのようです。多少まがりくねったり、場所場所で速くなった遅くなったりしても、結局は前に前に流れていきます。

私は、とらえ方そのものとしては、基本的にはこの最後のものに共感します。ただ、そこで根本的な生を大きな河のように直線的にイメージしていることについては再検討が必要と思います。直線的なイメージではそのうちいろいろと不都合が出るように思います。そもそも、どこまでも永遠に前進するということは、本当にできることなのでしょうか? また、永遠に前進するのなら、少なくともスタート地点があるはずです。根本的な生のスタートとは、どんなものなのでしょうか? そのスタートの前には何があった(なかった)のでしょうか? どんどん謎が深まっていきます。似たようなことは「宇宙のはじまり」について議論されますが、物質的な宇宙よりも根本的な生の方が、この謎は深刻です。根本的な生について宇宙のビッグバンのようなものをイメージすることは困難です。

また、「根本的な生」と言うだけでは、あまりにもばく然としています。もちろん、根本的な生を私たちの目に見える宇宙のように物理的にとらえることは、最終的にはむつかしいかもしれません。しかし、可能な限りそれにトライすることは必要です。人間は五官でものごとをとらえて生きています。この点、いきなり五官を放棄した「深掘り」は、ただのりくつにすぎなくなる心配があります。そうすると、頭では理解できたつもりでも心がついていかないということになりかねません。

そのため、「根本的な生」の真の深掘りのためには、哲学的に考えを進めるだけでなく、科学の知識や見解も取り入れる必要があります。さらには、経済学、数学、宗教などの一見分野が違うところでの見解・理論や思想も、参考になります。それぞれの分野でのテーマを正しく深掘りしていったとき、おのずと同じところにたどり着くかもしれないからです。

そういう豊かな視点を持ちながら、さまざまな分野のさまざまな成果、特に歴史のふるいにかかりながら生き続けた思想や理論などに教えを受けることが、「根本的な生」の深掘りを確かな形で行っていくうえで必須なのではと思います。

私が前回と今回でニーチェの「悲劇の誕生」を取り上げたのは、大きく2つの理由によります。
1つは、そこでのニーチェの検討の仕方(進め方)が、「コロンブスの卵」的なことも含めて、「生」というテーマに限らず、いろいろなことを考える際の参考になると思ったからです。仕事でも、プライベートでも。

もう1つは、「生」は、現代社会でも価値あるテーマです。たとえば社会保険労務士や行政書士の仕事をしていても、よくこのことを実感します。そして、この点でニーチェが骨太で深掘りされた考え方を示していているからです。特に「悲劇の誕生」では、その考え方の枠組みがシンプルにうかがえます。そのため、上記のようにさまざまな分野の成果を受けとめるにあたり、ニーチェの枠組みからスタートして、それを肉付けしたり修正することはとても便利で有益です。
このやり方で得られた「根本的な生」への私なりの発想・イメージは、ひとつのサンプルとして、機会がありましたらご紹介できればと思います。

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