理性について

カントというドイツの哲学者がいます。今から300年ほど前に活躍した人です。
ただ、その人が考えたことは、永い歴史の中でふるいにかけられても、今もしっかり生きています。
明治の日本でも、カントの哲学が輸入されると、「哲学はカント様によって完成された!」と言われたほどの大きな影響を与えました。今でもそう考える人は、きっと少なくないと思います。では、カントの考え方のどこが「すごい」のでしょうか?

カントは、「理性」について考えました。カントが書いた本の名前にも、「純粋理性批判」や「実践理性批判」といった形で、「理性」という言葉が出てきます。ちなみに、これに「判断力批判」という本をあわせて、「三大批判書」などと呼ばれます。では、「理性」を「批判」するとはどういうことなのでしょうか?

ここでは「理性」とは、ものごとに1つひとつ名前をつけて、その意味をはっきりさせて、それらを使いながら、数学の計算式や証明問題のように順を追って整理して考えを進めていくことだと思えばよいです。そうしたことができる能力です。たとえば、「人間はなぜ生きているのか」などど何となく考えるのではなく、「人間」とは何か、「生きる」とは何かということ(言葉の意味)をまずはっきりさせておいて、そのうえで順を追って整理して、「人間はなぜ生きているのか」を考える(証明する)ようなやり方です。そうしたやり方ができるように、カントは、実に分厚いマニュアル本のようなものを何冊も書いています。その代表が「三大批判書」です。とくに最初の批判書である「純粋理性批判」です。

カント自身も、自分の仕事はいろいろな哲学のテーマに答えをだすことではなく、その答えの出し方を整理する(マニュアル化する)ことだというようなことを言っています。ただ、上手に整理すれば自然と良い答えも出てきます。カントは、その答えにもふれています。その意味では、カントの本はただのマニュアル本以上の価値があります。

ところで、このような「理性」の能力を使うためには、その材料となるものごとが必要です。しかし、カントは、「ものごと自体」は材料にしたくてもできないと言います。材料にできるのは、あくまで、ものごとを見たり聞いたりした結果、つまり人間の五官で加工されたものだけだというわけです。ここに「五官」とは、目、耳、鼻、舌、皮膚のことです。それらでとらえた、つまり「五官で加工されたものごと」以前の、「ものごと自体」は、実は知ることができないということになります。確かに、人間がとらえることができない「音」のようなものをコウモリはとらえることができます。もしかするとコウモリには、その「音」が「見えている」のかもしれません。逆に人間には、コウモリの目ではとらえられないものが見えているかもしれません。

ですから、「理性」は、そうした「五官で加工されたものごと」を使って、数学の計算や証明問題を解くようなことをやっているわけです。その意味で「理性」は万能ではなく、活動に限界があることになります。そもそも、五官でものごとをとらえることを「認識」と呼ぶなら、理性に材料を提供する「認識」の働きの段階で、「ものごと自体は知ることができない」という限界があることになります。このようにカントは、まず人間の認識には限界があって、だから理性の働きにも限界があるということを素直に認めなければならないと言います。人間は神様ではないというわけです。

ただ、カントは、だからと言ってあきらめません。確かに「ものごと自体」がどんな姿をしていたりどんな性質を持っているのかそのものは認識できないかもしれません。しかし、科学の力(ここにも理性の働きが関わっています)によって、人間の認識の力をアップさせることはできます。たとえば、顕微鏡や天体望遠鏡の発達で、人間はそれまで認識できなかったたくさんのことを認識できるようになっています。しかも、カントは、マニュアル本によって理性の働きに徹底的にみがきをかけて考えれば、認識できないこと、つまり「ものごと自体」の真の姿・性質にもせまることができると考えます。認識できないからあきらめるのではなく、理性の働きにみがきをかけて、頭でしっかり整理して考えることにより、できる限り真の姿に近づこうというわけです。認識の力の限界を、理性の力によってカバーしようというわけです。ですから、カントのマニュアル本は、ただ理性をマニアックに分析・整理しただけのものではなく、このように「真の姿」に近づくことを目指したものだと言えます。人間の能力の限界を認めつつ、同時に、人間の能力の無限の可能性も信じているわけです。私は、カントの哲学のすごさは、この両方の視点をバランスよく持っている点にあると思います。理性を「批判」するとは、こういうバランス感覚だと思います。

ちなみに、ニーチェも、「ギリシア人の悲劇時代における哲学」と呼ばれる論文の中で、理性ではものごとの真の姿にたどりつくことはできないと言っています。その点ではカントと同じです。しかし、カントがだから理性をしっかり使いこなせるようにしてものごとの真の姿に少しでも近づこうとするのに対し、ニーチェは理性を当てにせずにものごとを直観する(りくつぬきにとらえる)ことで、その真の姿に近づこうとします。

私は、このどちらが正しいやり方なのか判断できません。そもそもどちらかが「正しい」ということですらないようにも思えます。ただ、たとえば「自分は生きている」といった程度なら、少しは直観できそうな気もします。しかし、その根っこにある、以前話題にしたような「宇宙の本質」そのものを直観するとなると無理です。ですから、できる限りカントのやり方で進めていって、最後はニーチェ的に直観するのが現実的かなと思っています。行けるところまでカント、最後はニーチェです。

以上を要約すると次のとおりです。
・人間は、ものごとの真の姿を直接とらえることはできない。
・それは人間の能力を超えている。
・しかし、あきらめてはいけない。
・「理性」の力をうまく使うことによって、ものごとの真の姿にせまることはできる。

これは、たとえば「宇宙の本質」についてもあてはまります。
・「宇宙の本質」そのものを直接とらえることはできない。それを完全に知ることはできない。
・それは人間の能力を超えている。
・しかし、あきらめてはいけない。
・歴史のふるいにかけられて今に生きている「理性」の力も借りれば、「宇宙の本質」を正しくイメージできる。

そう思って、少しずつでも、「宇宙の本質」のイメージに近づけるなら、それはそれで、「なぜ自分は生きているのか」などとばく然と考えるよりも楽しみなことです。

なぜなら、「宇宙の本質」を正しくイメージできれば、その宇宙の中で生きている自分たちの姿も正しくイメージできます。そうすれば、「なぜ生きているのか」などと考える必要もなく、おのずと答えが出てくる(というより答えを意識しなくても自然と頭と体が納得する)かもしれないからです。たとえとして「なぜ生きているのか」を出しましたが、そんな大きな話でなくても同じことです。日々の生活が、すべて正しくイメージできるわけです。それが、じわっとしみこむ心の平安と豊かさにつながります。

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