「時間」についての素朴な疑問_補(すこしアインシュタインっぽく)

前回の結論は、「根本的な生が全体的な調和を保っていること」と「身近かな時間が直線的に流れていること」は矛盾しないということでした。そこで、この点についてもう少し深掘りしてみようと思います。

いきなり「根本的な生」というとイメージしにくいですので、「宇宙の全体」と言いなおしてみます。ただ、この「宇宙の全体」は、私たちが望遠鏡などを使って観察できる姿そのものとは限りません。ややこしいですが、人間の五官(特に視覚)でとらえた姿にこだわらない「宇宙の全体」です。ではそれは具体的にどんな姿をしているのかと言いだすとどうどうめぐりになります。「目に見えないものを見たらどう見えるのか」と言っているようなものです。もちろん、「目に見えない」と開き直ってその姿を追究することをすぐにあきらめるつもりはありません。あきらめてしまうとそこで深掘りはストップしてしまいます。しかし、ここではいったんこれ以上追究しないでおきます。

そのうえで、その「宇宙の全体」の中にA地点とB地点を考えてみます。もちろん、そもそも「宇宙の全体」の姿が具体的にわからないので、私たちが五官でとらえるような「地点」というものがあるかも正確にはわかりません。その意味では「A地点」・「B地点」という表現は仮のものになります。ですので、ここから先も仮の表現です。

そのA地点とB地点にそれぞれ人が立っていて、時刻をぴったり合せた同じ大手日本メーカーの時計を持っているとします。デジタル時計でもアナログ時計でもかまいません。どちらの時計も完全に同時に時間をきざんでいます。その意味では、A地点とB地点には、過去→現在→未来という同じ直線的な時間が流れていることになります。A地点とB地点に立っている人は、どちらもそれを当然のことと思っています。

しかし、ここで重要なこととして、A地点とB地点の間には大きな特徴があって、A地点でものごとが進むと、B地点ではそれとまったく逆にものごとが進むとします。このように、A地点とB地点のものごとの進み方はそれぞれ別々なのではなく互いに関係しあっているわけです。もちろん、A地点でコップが割れるとB地点では割れたコップが元に戻るというわけではありません。そこまで仮の話をしてしまうと、ただの独りよがりになってしまいます。もしかするとそんなこともあるのかもしれませんが、ここではそこまで極端なことは考えないでおきます。

この点は、A地点とB地点のものごとの進み方が互いに関係しあっているということを、それぞれの地点での「エネルギー」の量にたとえるとイメージしやすいかもしれません。つまり、A地点のエネルギーの量が増えると、それと同じだけB地点のエネルギーの量が減るとイメージします。もちろんここで言う「エネルギー」も、たとえば石炭を燃やしたり原子力発電で得られるような身近かなエネルギーと同じとはかぎりません。ですので正確には「エネルギーっぽいもの」です。あえて私たちの身近なものでたとえるならエネルギーに近いものという程度の表現です。

その場合、A地点とB地点で同じ時間が過去→現在→未来と直線的に流れているというだけではこの「お互いに関係しあっている」ことはうまくとらえきれません。むしろ、A地点で過去→現在→未来と時間が流れるのなら、「エネルギー」的に見ると、B地点では未来→現在→過去と時間が流れると表現した方が、何とかこの「お互いに関係しあっている」ことを「時間」によってあらわせることになります。しかし、私たちの頭の構造では、未来→現在→過去と流れる時間をイメージすることはかなり困難です。ですので、時間はA地点でもB地点でも過去→現在→未来と直線的に流れていて、ただその時間の流れの中で起きているできごとだけが逆なのだと説明した方がすっきりするかもしれません。「時間の流れ」と「できごとの流れ」を区別して考えるわけです。2つの地点だけの関係ならこれでも説明可能です。

では、AとBという2つの地点だけではなく、「宇宙の全体」のすべての地点(そうするともはやそれを「地点」と呼べるかもあやしくなりますが)の間でこれと同様の「互いの関係」がある場合はどうでしょうか。A地点で「エネルギー」が増えたちょうど同じ分だけB地点の「エネルギー」が減るといった単純な関係ではなく、「宇宙の全体」のすべての地点をトータルして、「エネルギー」の増減に調和がとれている場合です。「宇宙の全体」のすべての地点の「エネルギー」のプラスとマイナスを合計してはじめてゼロになる場合です。

そうすると、「宇宙の全体」の「調和」とは、あえてたとえるなら、上記のようにそれぞれの地点の「エネルギー」の変化が他のすべての地点(特定の地点ではなく)の「エネルギー」の変化と関係しあっていて、それがトータルでプラスマイナスゼロになるイメージに近くなります。つまり、「宇宙」は、局所的にはたえず「エネルギー」が変化しているが、全体的・大局的には常に調和しているわけです。

その場合、宇宙のそれぞれの地点で過去→現在→未来と直線的にときをきざんでいる時計を、宇宙の全体について考える場合に当てはめてみても意味がないように思います。そのような時計は、宇宙の全体の「調和」をまったくあらわせていません。それどころか、過去→現在→未来という直線的な時間をあえて持ち出そうとすると、宇宙の全体の調和を理解する妨げになるおそれがあります。「直線的」と「調和」には相容れないものがあります。そう考えると、「宇宙の全体」においては、少なくとも私たちが時計でイメージするのと同様の「時間」は、そもそも流れていないと言う方がよいように思います。

以上を要約すると、下記のとおりです。

①「宇宙」は、局所的にはたえず「エネルギー」が変化している。
②しかし「宇宙」の「エネルギー」は、全体的・大局的には常に調和している(バランスがとれている)。
③そう理解することと、私たちの身近かで「時間」が直線的に流れていることとは矛盾しない。
④私たちの身近では、時間は過去→現在→未来と直線的に流れている。
⑤しかし「宇宙」を全体としてみた場合には、私たちの身近かと同じような「時間」は流れていない。

なお、以上では「根本的な生」をとりあえず「宇宙の全体」に置きかえました。そして、「宇宙の全体」について考えるにあたって「エネルギー」というイメージを持ち出しました。この発想は、「宇宙の本質」あるいは「根本的な生」そのものをイメージする際にも役に立ちます。ただこの点は、科学、さらには経済学、数学、宗教などの歴史のふるいにかけられた知見(それは人類の貴重な財産です)も参考にして、さらに深掘りする必要があります。

この深掘りは、上記①・②がただの仮説(もっと言えば独りよがり)にすぎないのか、それとももっと腹落ちできるものなのかということから始まります。それを歴史のふるいにかけられた上記の「人類の貴重な財産」と照らし合わせながら検証するわけです。そのためには、それぞれの「人類の貴重な財産」の言わんとすることを整理する必要があります。そのうえで、その整理した内容に上記①・②が適合するか、あるいはどこがどう違うかを確認していきます。そうすることで、気づかないうちに途中で止まったりわき道にそれたりせずに深掘りを進めることができます。

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