「今までの日本の賃金の決め方は長く勤めたらその分賃金も高くなるというものだったがそれはおかしい」。「仕事でどれだけの結果(成果)を出したかに応じて決めるべきだ」。こうした結果だけで決める「成果主義」の考え方で言うと、サラリーマンは大工の親方とどこが違うのかということになりかねません。
確かに、「成果主義」は一見「合理的」に思えます。しかし、サラリーマン=雇用契約=労働契約の、もっとも基本になることを見落としています。つまり、「使用者には労働者の生活と人生をあずかっていることへの責任がある」ということです。
これに気づかないか、気づかないふりをして「賃金」を支払っていると、その会社は労働者への大きな責任を果たしていないことになります。つまり、従業員を粗末にしていることになります。そのため、すぐに会社としての基礎体力を失います。やがて体を動かすことすらできなくなってしまいます。日本は、虎の子の技術力を、目先の利益だけ考えて海外に流出させて競争力を失ったと言われます。今度は、目先のことだけを考えた「成果主義」で体力を失って勝手におとろえていったと言われないようにしなければなりません。
私は、「成果主義」は、ただ「国際的な流れに乗り遅れないようにする」だけでなく、日本的な賃金の決め方が、いつのまにか大もとの目的を忘れてただの「年功序列」という形式だけになってしまっていることを気づかせてくれたという意味で、とても価値があると思っています。
しかし、その一方で、目先の仕事の結果だけにとらわれて一喜一憂する「成果主義」は、見せかけの成果主義にすぎないと思っています。それは、「労働とは何か」、言い換えると「賃金とは何か」という最も重要なことを見失っています。