前回、「悲劇の誕生」という著作でのニーチェの発想をヒントに、「根本的な生」についてふれました。
それをさらに深掘りする参考として、今回は「時間」というものについて考えてみます。
デカルトというフランスの哲学者がいます。哲学者というより何でも屋のような人です。
デカルトの考え方の大きな特徴は、①いろいろなことをりくつでつきつめる、②いろいろなものを歯車でできた機械じかけの物のようにとらえることにあります。デカルトも、当時の人らしく、肉体とは別に精神があることを認めます。しかし、デカルトの手にかかると精神ですらモノっぽく感じられてしまいます。
デカルトの功績の1つとされることに、空間を座標でとらえたことがあげられます。「座標」というと難しそうですが、空間を立体のグラフ用紙のように網目であらわしたということです。これによって、空間の一つひとつの場所を、この網目の中の位置であらわすことができます。それにより、空間をりくつでとらえやすくなります。空間をモノっぽくとらえやすくなります。実際に、このやり方で科学は大きく進歩しました。多分、このやり方が、人間がものを考える仕組み(頭の構造)に合っているからでしょう。私たちは当たり前のようにものを見たり聞いたり考えたりしています。しかし、見え方も、聞こえ方も、考え方も、すべて人間の頭の構造によるものです。結局は頭の構造に合ったようにしか、人間は見たり聞いたり考えたりできません。デカルトは、そのことを真正面から認めて、それに都合よいやり方を提供したわけです。
ただ、現在は、アインシュタインなどの登場で、空間ですら曲がってしまうとされています。正確には、空間に網目をひいたのは私たち(人間の頭)で、もともと空間に網目があったわけではありません。ですので、空間が曲がったというのは私たちがまっすぐひいたつもりだった網目が曲がりはじめたというだけのことです。自分たちでひいた網目を自分たちで曲げているだけです。
では、「時間」についてはどうでしょうか。
私たちは、時間は過去→現在→未来と直線的に進んでいると感じています。特に、時計が発明されてからは(それは今から5000年前とか6000年前と言われます)、私たちは、この直線的な時間の流れが目で見えるかのように感じています。それは、空間を座標でとらえるよりももっと強力に、私たちの頭に焼きついています。
確かに、人間やその他の生き物は、生まれて成長してやがて滅します。石なども、長い時間がたつと少しずつ粉々になっていきます。川も一方向に流れます。春が過ぎて冬も過ぎるとまた春になります。しかし、それは1年前の春に逆戻りするのではなく、新しい春がやってくるだけです。そうしたことを見ていると、この世界(宇宙)には時間というものがあって、それは過去から未来へと直線的に進んでいると当然に思えてきます。あるいは、現在があって、時間が過ぎるとそれが過去になり、それと同時に未来が現在になるといった感じです。
しかし、もっと深掘りしてみると、そもそも世界(宇宙)には、私たちが「時間」と呼んでいるものがあるのだろうかと疑問になります。もちろん、この世はすべて幻で時間も空間も実は存在しないなどというつもりはありません(そう考える人もいるかもしれませんが)。ただ、それは私たちが時計でとらえているようなシンプルに直線的なものなのだろうかという疑問です。生き物の一生、石の変化、川の流れなどを否定するつもりはありません。それらはすべて幻だと言うつもりもありません。前回もふれましたが、人間は五官でものごとをとらえます。その五官そのものを否定すると、ただ頭で考えるだけの独りよがり(人間よがり?)になりかねません。変な方向に考えが進んでいても、軌道修正すらできなくなりかねません。
ただ、五官とそれに基づくりくつだけにしばられすぎることも、これと同じくらい危険です。目に見えるものとりくつだけでしか考えないでいると、知らないうちに変な方向に考えが進んでしまっていることに気づかず、軌道修正すらできなくなりかねません。「五官」と「りくつ」にしがみついている分、変な方向に気がつかず軌道修正できないときのダメージは深刻とさえ言えます。「五官」+「りくつ」があるから自分は正しいと信じきっているからです。
そこで、このようなことを思いながら改めて「時間」について考えてみます。
確かに、生き物の一生などは五官でとらえる限り間違いないことです。細かいことは別にして、これそのものは否定できません。ですので、時間が過去→現在→未来と直線的に進んでいることも、それそのものは否定できません。
しかし、それはいわば私たちの身近かに流れる時間についての話です。もっと大きな視点で時間そのものをとらえた場合にも必ず直線的に流れているとは限りません。あるいは直線的に流れるイメージのものだけを私たちの頭の構造にそって「時間」と呼ぶのであれば、前回お話しした「根本的な生」を深掘りするようなときには、そもそも直線的なイメージの時間そのものが存在しない可能性もあります。表現を変えると、私たちの身近かに流れる時間は、もっと大きくとらえると、直線的ではなく曲がっている可能性もあります。身近かには直線的で全体としては曲がっている時間です。近くで見るとまっすぐにしか見えない大きな河が、遠い高いところから見ると曲がっていることに気づくのと似ています。
もちろん、私は神秘的な話をしているつもりはありません。五官でとらえられないことを話すのはすべて神秘的だというのなら別ですが。私は「神秘的」という言葉をそのようにはとらえていません。そうとらえることは上で述べた独りよがりと同じで、「神秘的」という言葉への偏見や、「神秘的」という言葉をあびせることで自分を正当化しているだけになるからです。そのような正当化は、本当の深掘りとは言えません。
①私たちの身近かでは確かに時間は過去→現在→未来と直線的に流れている。
②そうした時間をイメージできる。それそのものを否定すべきではない。
③だからといってより大きな視点でとらえた場合にも直線的な時間がイメージできるとは限らない。
④たとえば「根本的な生」について深掘りする際は、「時間」について、このような柔軟な発想が必要。
そう考えると、たとえば、私たちの世界(宇宙)は、直線的な時間が流れつつ、全体としてはそれを超越した大きな調和を保っている可能性もあります。これは、「根本的な生は全体的な調和を保っている」、「それは身近かな時間が直線的に流れていることと矛盾しない」という発想にもつながります。