エルジビェータ・エディンガー著「アーレントとハイデガー」(1995年刊)。これは、文字通り、ハンナ・アーレント(1906年~1975年)とマルティン・ハイデガー(1889年~1976年)の恋愛・交流と実像(その裏返しとしての虚像)を、豊富な書簡の裏付けであぶりだしたものです。著者は、マサチューセッツ工科大学の教授(当時)で、示唆に富んだ内容の本です。二人が世界的に有名な哲学者だったこともあり、哲学者として二人が持つイメージとの間のあまりのギャップに、出版当時、かなりのセンセーションを巻き起こしました。
ハイデガーは、「存在論」と呼ばれる哲学の分野で独自の基礎をつくり、そのうえに創造的で魅力的ともいえるような哲学体系を築きました。その論述には、起承転結と理論で追い込んでいくようなシャープな流れと迫力があります。
ところで、「ハイデガー哲学」のもとで、ハイデガー自身は、ヒトラーのナチスドイツの国家社会主義のイデオロギーに共鳴しました。本書を読むと、それはハイデガーが当時のドイツの中で学者としての立場を守るためにやむを得ずとった正当防衛でも、ナチズムの熱狂の中で一時的にかかってしまったハシカでもなかったことがわかります。
他方、アーレントは、ユダヤ人で、ドイツの大学でハイデガーの教え子の一人でした。入学早々に、ハイデガーの誘いに応じて愛人になりました。しかし、後に「ハイデガー哲学」のもとで、反ナチズムのイデオロギーを展開しました。そして、さらにその哲学を発展させて、ナチスドイツの国家社会主義とソ連の共産主義は、独裁的で反人権的な点で根っこ(本質)が同じだと主張しました。
このように、「ハイデガー哲学」は、ハイデガーとアーレントを通じて、まったく相反するイデオロギーを主張するための器(入れ物)となっています。「ハイデガー哲学」という器を使って、ナチスドイツを擁護することもできれば、逆にナチズムやソ連共産主義を強く批判することもできるわけです。
これは、「ハイデガー哲学」が、理論的には精緻かもしれないものの、真に主張すべき中身や生き方を宿していないことをあらわしています。「ハイデガー哲学」には、生きる力、宇宙の本質的エネルギーが感じられないわけです。
ちなみに、同様に理論的に精緻であるカント哲学には、緩やかで保守的ではあれ、それらが感じられます。この点で、「ハイデガー哲学」とカント哲学は、似て非なるものだと言えます。
この「ハイデガー哲学」の特徴は、ハイデガー自身の性格・生き方にもあらわれています。本書は、そのことを、いくつもの書簡に基づいて赤裸々に伝えています。ハイデガーは、ある種のカリスマ性や魅力を十二分に持っています。しかし、その生き方には表裏があり、いわば卑怯です。カリスマ性や魅力でガード、カモフラージュされている分、その卑怯さは際立っています。言い換えれば、際立った卑怯さが、そうしたガードやカモフラージュを欲しがり、それが、哲学の世界で「ハイデガー哲学」として結晶したのかもしれません。
このように、理論はいくら精緻でも、そこに生きる力・宇宙の本質的エネルギーが宿っていなければ、何の実益・実用性もありません。むしろ、有害ですらあります。「ハイデガー哲学」がそうだと断言するつもりはありませんが、本書からは、そうした考えが浮かびます。そもそも哲学とは、生き方の道しるべになるべきものです。ただの理論遊びではありません。そのことを、「ハイデガー哲学」は、ハイデガー(そしてアーレント)の生き方と共に、反面教師として教えてくれます。
本書は、アーレントとハイデガーの恋愛について考えるためのものではありません。二人のダラダラと間延びしていて不甲斐なささえ感じる生き方は、確かに「考えさせられる」ところがあります。モヤモヤします。しかし、それはどうでもよいことで、しょせん二人の問題にすぎません。
本書での大きな学びは、生きる力・宇宙の本質的エネルギーが宿らず、生き方の道標にならない哲学は、役に立たず、それどころか下手な生き方の言い訳として有害だということです。
ちなみに、以上のような話をすると、「哲学者の人生と、彼が生んだ哲学は別のものだ。人生がダメだからと言って、哲学そのものの価値が下がるわけではない。」などという意見を耳にします。それには同感です。ただ、哲学でも、小説でも、漫画でも、絵画でも、歌でも、心を込めて生み出した作品には、その人の人柄や価値観がおのずと反映されます。生み出した人を抜きに、生み出された作品を語ることはできません。作品は作者をあらわす鏡でもあるわけです。この意味で、この二つは「まったくの」別のものというわけにもいきません。
ハイデガーは二十世紀最大の哲学者と持ち上げられることもあります。しかし、全くそうは思えません。それは、ハイデガーの生き方や性格のためではありません。「ハイデガー哲学」の、上記の無益さ・有害さの故です。もし、「ハイデガー哲学」が二十世紀哲学の代表だとすれば、それは二十世紀が混迷の時代であり、「ハイデガー哲学」がくしくもその混迷を象徴しているということかもしれません。
二十世紀は、さまざまな政治体制や政治そのものが、それぞれ自らを正当化しました。しかし、それらのどれもが、社会に弊害をもたらしました。そのようにしながら肥大化した政治が、あるいは肥大化しすぎて滅び、あるいは機能不全をきたしながら、社会やそこに生きる人々を圧迫しています。肥大化した政治による社会への圧迫は、これ以上ないところまで社会を追い込み、人々を疲れさせています。これは、二十一世紀の今もひきずられ続けています。
もしそうだとすれば、「ハイデガー哲学」とハイデガーの人生は、哲学という片隅における、その象徴だとも言えます。